2005年07月28日

自信を持つということ

社会生活において、自信がいかに大切であるか、
ということは議論の余地もないだろう。
そして、自信を持つということが、
『自分をどれくらい好きであるのか』に、
その基底を委ねていることも揺ぎ無い事実である。

さて、程度はさておき、
自分を好きでいるのには、チカラが要る。
たとえば、ある志望大学に受験で失敗すれば、
高校生活を振り返り、遊んでいた時間を洗い出し、
「何故あの時、勉強しなかったのだろう」
と、少なからず悔やむものである。
自己嫌悪の念も、そこに付随してきてしまう。
ここで、「無駄な時間など1分たりともなかった」
と言えるのであれば、それはチカラがあることに相違ない。
しかしながら、もし合格しているのであれば、
無駄な時間が過去に存在していたとしても、
自信が揺らぐことなどは決してない。
それは、運を引き寄せるチカラや、要領の良さというチカラが、
その人に備わっていたことに起因する結果だからである。
ここまでで、自信とチカラには密接な関わりが
あることが解かったと思う。
では、チカラを手に入れるには、
どうしたら良いのであろうか。
それは、個人の努力、それ以外にはない。

こう言ってしまうと、努力の結果が自信ということになるが、
私が言いたいことは少し違う。
『努力の結果、自分を好きになることができる。
その副産物として、自信を得られる。』
ここに、このエッセイの主題がある。

発想を変えて、努力について考察してみよう。
努力とは、ある目的のために励むことである。
先の受験の例であれば、合格者も不合格者も
「合格のために励んでいた」わけで、努力をしていた。
問題は、合格者と不合格者の比較ではなく、
不合格でも自信を得ている人がいる、ということである。
この人にとって、結果は自信に関係ない。
自信の拠り所「無駄な時間はなかった」というのは、
本当にそうであったのかどうかは、さほど問題ではない。
突き詰めれば、睡眠時間を限界まで削ったのか、
ということになるが、そんな人など皆無であろう。
つまり、「無駄な時間はなかった」というのは
主観的な意見であり、自己完結しているのである。
しかしながら、その主観的な事実があるから、
「自分を好き」でいられることは、大きな意味を持っている。

そろそろ話をまとめよう。
自分を好きになるためには、自分が納得できる行動があれば、
それだけで十分であり、動的な尺度も導入すると、
時々刻々、その瞬間に、自分が納得ができる行動選択をすることで、
自分を好きになることができ、ひいては自信を持つことができる
ということになる。

ともすると、他人に褒められたり、
社会的に認められたりすることがなければ、
自信を持つことが出来ないと思いがちであるが、
そんなことは決してない。
自分が納得する「努力」こそが、「自信」の源なのである。
posted by Tomo at 23:00| Comment(3) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
トモチューは、ネットで無駄などさておき
大学とか程度を生活すればよかった?


Posted by BlogPetの「トモチュー」 at 2005年08月02日 14:02
ない無駄と、自信とか、余地とかを付随しなかった。


Posted by BlogPetのトモチュー at 2005年08月09日 14:15
ない程度とかないだろう
要領と程度とか、なかった大切とか振り返り
トモチューの飼い主たちが、自分とか委ねていることも揺ぎ
トモチューの飼い主は、ネットで自己と、少なからず余地と大きい自分などしていた
程度などを失敗しなかったの?


Posted by BlogPetのトモチュー at 2005年08月16日 16:35
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